○ 小架式を中心とした系図(遼寧省大連市) 一世 二世 三世 四世 五世 六世
(大架)┌王占春─ |
『通背』は中国語では「tong1bei4 とんべい」と発音する。表記は違うが、『通臂』『通備』も同じ発音である。
このうち通備門は、近代武術界の高手「馬鳳図」公が劈掛拳を核に八極、翻子、螳螂等の門派を融合し、新たに開いた門派である。(通備門については、ASH氏のWUSHU Home Pageを参照して下さい) 「通臂」は、架空の動物「通臂猿猴」からの命名と言われている。通臂猿猴とは、左右の腕が一本に繋がった架空の猿の事で、右腕を伸ばせば、左腕が短くなり、左腕を伸ばせば、右腕が短くなると言われている(一説にはテナガザルではないかとも言われている)。通臂門に伝わる独特の身法に習熟した者は、あたかも腕が遠くへ伸びるように見える。それが、この通臂猿猴のようである事から、通臂門と名乗ったと言われ、通臂、通背、通備の中では、最も古い表記であると考えられている。また、場所によっては、劈掛拳を通臂拳、通背拳と呼ぶ事もある。 『通背』とは「腰背から生じた力を肢体へ通じさせる」の意味である。また、『通臂』とは「臂(腕)から生じた力を肢体へ通じさせる」の意味もある。しかし、『臂』の力も本来は『背』から発するものであるため、『通臂』の意味も含めて『通背』と表記される事が多いようである。 通背門(通臂門)は、河北省を中心とした中国北方に古くから伝えられてきた武術で、現在では多くの分派の存在が確認されている。例を上げると、祁氏通背、五行通背、白猿通背、劈掛通背、少林通背、合一通背、六合通背等である。しかし、そのために起源は、はっきりとしない。一般に言われているのは『猴拳(猿拳)』が元になっているのではないかという事である。猿というと日本では、あまり良いイメージはないかもしれないが、中国において猿は神聖な生き物とされ、特に白猿は神の使いとされている。 このような通背拳の中でぼくの学ぶ祁氏通背拳小架式(五行通背拳)は、比較的近年に作られたものである。
祁氏通背小架式(五行通背拳)について清朝末期、祁信(浙江省。祁氏通背大架式)の息子、祁太昌が、従来の通背拳に創意工夫を加え、編み出したのが小架式である。小架式を「少祁派」、大架式を「老祁派」と呼ぶ事もある。祁太昌によって創始された「祁氏通背門小架式」は、三代伝人の『修剣痴』の手によって、大幅な改革を受ける。 修剣痴は近代の通背拳を代表する人物である。河北省出身で文武に優れていた。形意、八卦、太極、長拳などにも造詣が深く、許天和から受け継いだ通背拳にそれらの長所を加え、技術の創新、改革、さらには精密な理論付けを行った。それまでは「剛」の技法の多かった通背拳に「柔」の技法を増やして「剛柔相済」にし、技術の再編を行い、現在に伝えられているような形の通背拳にしたと考えられている。 また、修は器械(武器)にも優れ、刀、剣、槍などの改革も行った。槍は修の高弟、成伝鋭の活躍(断門槍が有名)により、国家の規定套路にもなった。「剣痴」という名前も、本来は「建池」であったが、剣が得意であり、かつ極めて好んだことにより「剣痴」と呼ばれるようになったという。 晩年には研究の成果を「勢」「法」「理」の三部にまとめあげた拳譜も残しいる。この拳譜は、中国国家が行った民間武術発掘事業の時に、修の関門徒弟林道生によって国家に提出され、優秀賞に選ばれている。(優秀賞は全国で三つだけであった) このように数々の業績を残した修剣痴は「燕北大侠」「通背大師」と呼ばれ、その名声は広く伝わった。そしてその技術を受け継いだ弟子は各地に広まり、脈々とその伝統を伝えているのである。 |